YAMATETSU見聞録

史跡探訪と旅行、その他読書雑感等 ~明日になれば明日の風が吹く~

東京都

ねこ膳~新宿・24時間営業の定食酒場 ~【関東甲州探見録6】

映画鑑賞後、
新宿3丁目にある24時間営業の居酒屋『ねこ膳』に行ってみたのでした★(=^・^=)★
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ねこ膳
東京都新宿区新宿5-17-1

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だし巻き

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黒霧島 お湯割り

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しょうが焼き

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黒霧島 水割り

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特製コロッケ\(^o^)/~~~

カフェーパウリスタ~銀座で明治・大正を偲ぶ~【関東探索記2018-2】

銀座4丁目から8丁目へ
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明治44年開業の老舗喫茶店・・・場所は移転したようですが、現在も銀座に★
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カフェーパウリスタ
東京都中央区銀座8-9-16 長崎センタービル1F

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カフェーパウリスタ(CAFE PAULISTA)は日本の喫茶店である。1911年(明治44年)、銀座に開業。各地に店舗を広げ、親しまれたが、1923年(大正12年)関東大震災の被災後に喫茶店経営から撤退。1970年に復活した銀座店は、昔のカップ、スプーンを復元するなどで「日本初のカフェ」を自認している[1]。「パウリスタ」は「サンパウロっ子」の意味。

皇国殖民株式会社の社長であった水野龍は、ブラジルへの日本人移送の見返りおよびブラジルコーヒーの宣伝普及のため、ブラジルのサンパウロ州政府より3年間1,000俵のコーヒー豆(ブラジル種)の無償提供を受けられることとなった。これを元に1910年(明治43年)、大隈重信に協力を仰ぎ合資会社カフェーパウリスタを設立し、翌1911年12月、「南米ブラジル国サンパウロ州政府専属珈琲販売所」と銘打ち、京橋区南鍋町(銀座6丁目)に「カフェーパウリスタ」を開業した[2]。サンパウロ州政府からのコーヒー豆の無償提供は実際には12年間続いた[3]
1911年は3月にプランタン、8月にライオンと「カフェー」を冠する店が相次いでオープンした年である。プランタン、ライオンは洋酒や洋食も売り物で、女給仕を置いていたが、パウリスタはコーヒー中心、店員は少年であった。
1杯5銭のコーヒーを提供する庶民的な店舗として人気を博し、「誰もが気軽に親しむことが出来る喫茶店の元祖」と言われる[要出典]芥川龍之介平塚らいてうなどの文化人のほか、学生(特に慶応義塾の学生)や社会人などが出入りした。カフェーパウリスタは東京市内を始め、名古屋、神戸、横須賀など各地に店舗を展開し、ブラジルコーヒーを広めた。
1923年(大正12年)の関東大震災でほとんどの店舗が全壊する大きな被害を受けたこと、およびブラジル政府からのコーヒー豆の無償提供の契約期限が同年で切れたことにより店舗経営から撤退し、事業規模を縮小してコーヒーの輸入・焙煎業を主としてうようになった。戦時下の昭和18年には当局の指示[4]により横文字の社名を日東珈琲株式会社に名称変更した。
1969年(昭和44年)、子会社として株式会社カフェーパウリスタを新たに設立し、1970年(昭和45年)、銀座8丁目に直営宣伝店「カフェーパウリスタ」をオープンした[5]
ジョン・レノンオノ・ヨーコが来日時に通ったという銀座店(銀座8丁目)は、1970年に再開したものである[6]。(Wikipedia)

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パウリスタオールド・・・伝統の味\(^o^)/

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良い相性のマロンショコラ\(^o^)/



銀座8丁目には江戸時代の痕跡も☆
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ということで、銀座における今昔を感じつつ、新橋駅へ向かったのでした♪

東京雑記~旅の風景~【東京逍遥記13】

その他、旅の風景を・・・
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神田神保町店で、
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450gほど注文してみたり・・・隣の巨漢は800gとライス大盛りで驚愕。

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神保町から秋葉原へ向かう途中の万世橋で・・・
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かつて有った銅像「広瀬中佐」を偲んでみたり。
広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫1868年7月16日慶応4年5月27日) - 1904年明治37年)3月27日)は、日本海軍軍人日露戦争でのエピソード(後述)で知られており、特に戦前は「軍神」として神格化された。
1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。37歳(満35歳)だった。即日中佐に昇進した。
明治末期に、銅像が国内に3体建造された。
  • 1905年(明治38年)3月、岐阜県高山市の城山公園中佐平に胸像。
  • 1910年(明治43年)5月に東京の旧万世橋駅前に銅像(杉野孫七像とあわせての群像)[4]が建てられたが、1947年(昭和22年)東京都によって撤去された[5]
  • 1912年(明治45年)5月に誕生地大分県竹田市に立像が建てられた。
上記の3体のうち、現在は高山市の城山公園と竹田市の広瀬神社に銅像が存在するが、明治に建造されたものは戦時中に供出されており、2体とも復元である。(Wikipedia)

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万世橋から・・・
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神田川を眺めてみたり。

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原宿竹下通りでお気に入りの曲を想い出してみたり。
「青山 原宿 表参道 銀座 赤坂 ふぬけな平和ボケたちが ブラブラしている」(お家へ帰ろう04)

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夕刻の羽田空港を眺めてみたり。

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帰路の飛行機(A321)にて・・・また機会があれば東京に行こうと想ったり。


ということで、
以上【東京逍遥記】 終了
ありがとうございましたm(__)m

レピドールのカマンベールトースト~竹下通りの静寂空間~【東京逍遥記12】

代々木公園から竹下通りへ。 
以前からhttp://retrocoffee.blog15.fc2.com/blog-entry-651.html を見て気になっていた「カマンベールトースト」を味わうために
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竹下通りの喧騒の中を歩きます。

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Repi Doll(レピドール)
東京都渋谷区神宮前1丁目16-5

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2階にあるその空間は・・・

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とても落ち着ける場所でありました

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たぶん名物の「カマンベールトースト」も最高~

明治神宮~不思議の森の空気~【東京逍遥記10】

市谷から中央本線の代々木経由で原宿にやってきました。
HNKで放送していた番組「明治神宮・不思議の森」を観て以来、気になっていた人工の森の空気を味わうべく、明治神宮を参拝しました。
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NHK「明治神宮・不思議の森」より(新宿上空から)

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原宿駅から
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明治神宮・・・南参道へ
明治神宮(めいじじんぐう)は、東京都渋谷区にある神社明治天皇昭憲皇太后祭神とする。初詣では例年日本一の参拝者数を誇る。正式な表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない「明治神[1]」。
22万(約73ヘクタールに及ぶ広大な神域は、江戸時代初めには肥後藩藩主・加藤家の別邸であり、寛永17年(1640年)より彦根藩藩主・井伊家の下屋敷となっていたもので、この土地が1874年明治7年)、井伊家から政府に買い上げられて南豊島御料地となっていた[2]。明治天皇は「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ。
1912年明治45年)に明治天皇崩御し、立憲君主国家としては初の君主の大葬であったがその死に関する法律はなく、何らかの記念(紀念とも)するための行事が計画される[3]。明治天皇は京都の伏見桃山陵に葬られたが、東京に神宮を建設したいとの運動が天皇を崇敬する東京市民から起こった。続いて、1914年大正3年)に皇后であった昭憲皇太后が崩御すると、政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、大正天皇の裁可を受けて、1915年(大正4年)5月1日官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表された[2]。(Wikipedia)

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不思議の森の参道です。
明治神宮を設営する場所として選ばれた代々木御料地付近は、元々は森がない荒地であった。そのため、神社設営のために人工林を作ることが必要となり、造園に関する一流の学者らが集められた。設計には、林学本多静六本郷高徳上原敬二、川瀬善太郎、中村斧吉(林苑課長)、大溝勇、山崎林志、中島卯三郎、農学/造園原煕大屋霊城狩野力太田謙吉森一雄水谷駿一田阪美徳、寺崎良策、高木一三、森一雄井本政信、北村弘、横山信二石神甲子郎、また、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の折下吉延らが参加した。折下らは神宮外苑のイチョウ並木などもデザインする。
こうして集められた明治神宮造営局の技師らは1921年(大正10年)に「明治神宮御境内 林苑計画」を作成。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念がこのとき構想され、林苑計画に応用された。当初、多様な樹種を多層に植栽することで、年月を経て、およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林(クライマックス)に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に予測され実行された。いわば、これが造園科学的な植栽計画の嚆矢であって、日本における近代造園学の創始とされている。なお、植林事業そのものは1915年(大正4年)には開始されている。(Wikipedia)

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明治以降の歴史とともに、大都会の中の神秘的な空気を感じることができました

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